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「食べる」とは。

 

 

 

「食べる」とは。

あなたがもし、「あなたにとって”食べる”とは何ですか?」と聞かれたら、何と答えますか?それは、生きる為に必要な行為であり、大切な日々の積み重ねのひとつであり、時に、幸せな瞬間を大切な人と過ごす為の営みでもあると思います。

今日はそんな疑問について思った事を記事に書きたいと思います。

 

 

 

 

東京都あきる野市の、山奥にて。

 

つい先日、僕は初めて”あきる野市”に行きました。「武蔵野五日市駅」を降り、飛び込んできた光景を前にまず最初に頭に浮かんだのは、「東京にもこんなところがあるのか。」

目線の先に、密集した建物たちやビルはありません。代わりにあるのは小さな個人店と思える商店や、広い道路、そして”山”。一言で言えばそこは、”田舎”でした。

 

そんな、東京の田舎に僕が出向いた理由は、とあるワークショップに参加する事。その内容はというと、みんなで”鶏を絞める”こと。

 

 

屠殺をしてみようと思ったきっかけ

 

今から約半年前、僕は菅田 悠介さんという方にお会いしました。その方は、大学生でありながら様々な課外活動をされている方で、その中でも僕が特に興味を抱いたのが

「”食料廃棄問題”についての問題提起」でした。

 

当然ですが皆さん、日本で一年間の間に捨てられる食べ物は一体どれくらいの量か知っていますか?

 

その数なんと、約2800万トン。これは、食料消費量全体の約三分の一にあたります。

そして、”食品ロス”と言われる「食べられるのに捨てられる」食べ物は約630万トン。

これは、日本人は毎日一人お茶碗一杯分の食べ物を捨てている計算にあたります。

 

世界中で飢餓に苦しむ人達に届けられる”食料援助”の一年間の総量は320万トン。

つまり、日本人が捨てているご飯の量は、優にソレを超えているのです。

 

そしてこの食品ロスの約半分は、一般家庭から排出されるものなのです。

僕は今まで、食べ物を粗末にするのは飲食店であると思っていました。

常にお客様を満足させる為に、不足がないように食べ物を用意し、提供する。

食べなかった分はゴミ箱行きで、何の価値も持たされず捨てられていく。

しかし、この考えは半分正解で半分不正解なのだと思いました。

結局は、飲食店をしている側がどうこうではなく、一人一人の「食べ物を大事にしよう」という意識が薄い為に起きている現状なのです。

 

かつて、「いただきます。」「ごちそうさま。」と食前食後に唱える、食べ物の命に感謝する素晴らしい習慣、文化を持った日本人は、

多くの食べ物を日々お粗末にしているということです。僕はこのことに気づき、とても悲しくなりました。

 

 

 

 

 

 

 

そして菅田 悠介さんは、この”食料廃棄”を減らす為に色々な活動をしていて

その一つに、「屠殺(家畜用の動物を殺す事)を通して、”いただきます”を知ろう。」というものがありました。

 

普段僕らが食べるお米や野菜、お肉や魚には全て、”命”が宿っています。

しかし、作物を育てるという経験もなく、生き物を殺すという経験もなく、

お金さえあればスーパーで年中なんでも買える時代になり、

僕たちの感覚は麻痺していきました。それらにある”農家さんとその作物とのストーリー”や、パックにして切り身にされ並んだそのお魚やお肉は、つい最近まで息をしていた”命”であったことをまるで忘れているかのようです。

 

では、どうしたらその”命”に気づけるのか。もっと「食べる」とはどういうことなのか

考えてもらえるのか。そのための問題提起の方法の一つとして、”屠殺”だったのです。

 

 

 

 

 

目に見えない、”命”の裏に。

 

 

この日、僕が参加したワークショップではまず鶏を絞める前に自分らがどれだけ鶏の事を知っているかを知る為に簡単なクイズをしました。結果は、全問正解者0。

普段自分たちが口にしている食べ物のことを、僕たちは余りにも知らないのです。

 

例えば、僕が知らなかったことにこんな事がありました。

普段僕たちがスーパーで買う鶏肉や卵。なぜあんなにも安く大量に手に入るのでしょうか。答えは簡単です。それは、「大量生産」しているから。

今日、私たちが口にする大半の鶏のお肉と卵は同一の鶏たちから成るものではありません。肉用は一羽から採れる肉の量が多くなるように開発され、効率重視のためゲージの中で飼われています(ブロイラー種)。身動きが取れないくらいにぎゅうぎゅうに詰められて。

卵を産む用の鶏は採卵鶏といって、これまた生まれた瞬間に雄か雌か判別され卵を生む雌は卵を産むようになるまでこれまた小さいゲージの中でぎゅうぎゅうになりながら育てられ、卵を産む頻度が落ちたら(歳を取ったら)処分されます。幸い、この処分される肉(廃鶏)は加工用肉(ミンチやミートボールなど)として出荷されますが、

それでは。卵を産む事もなく肉付きもよくない採卵鶏の雄たちは、どうなっているのでしょうか。当然のごとく、生まれる雛の約半分は雄です。

 

採卵鶏の雄鶏は、生まれたその日に陽の目を見る事もなく殺処分されるのです。

2円。これは、この雛たち一羽にかけられる殺処分の費用です。

 

 

 

僕はこの事実を知り、とてもおぞましい気持ちになりました。しかし、これが現実で

僕はその恩恵を受けながら19歳になるまで育ってきたのです。家で気軽に肉料理が食べられるのにも、美味しいケーキが安く買えるのにも、こういう背景があるからなのです。「命のあり方」を考える以前に、僕はまず少なからずその効率・生産性を重視された鶏たちの恩恵をいかに受けているかをまず知る事が出来ました。

 

 

 

人生初めて、命を奪った瞬間

 

 

 

簡単なクイズを終え、ランチも終えた後にはいよいよ屠殺です。少し、その工程を説明します。

 

まず鶏の足をつかみ、逆さにし頭に血を上らせます。そして少し大人しくさせた後には、鶏を気絶させます。方法は基本的に二つあって、一つは木の棒など固いもので頭を殴り気絶させる方法。もう一つは、首をねじり首の骨を外し気絶させる方法。今回取った方法は後者でした。

 

まず驚いた事は、一羽の鶏の重さです。実際に持ってみるとかなり重く

「これから自分はこいつを一人でさばくのか。」という気持ちになりました。

 

そして次にびっくりしたのが鶏の生命力の高さです。鶏の首を絞める時、地面に押さえつけながら鶏の頭を⒉〜3回転するのですがその時の鶏の抵抗力は凄まじいもので

ばたばたと動こうとし、大きな声を上げ鳴きます。

そして以前Youtubeで観たのですが、意識があるまま鶏の首を落とすと、その胴体はまだ殺された事に気づかずバタバタと飛び跳ねます。

 

「この鶏も、生きているんだ。」そんな当たり前の事を感じました。

 

 

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胴体から切り離した後の鶏のとさかは、みるみるうちに色を失っていきます。

そっか、この赤は生きた血の色だったのか、なんてことも気づきました。

そして、命絶えた鶏は目を閉じます。首を何回転もねじる中、鳴き声が止み

静かに目を閉じていったあの時

僕は人生で初めて何かの”命”を奪った瞬間を感じました。

それは、罪悪感とも少し違う、けど感謝とも少し違う形容しがたい気持ちになりました。

 

 

死んだばかりの鶏の顔を見てなんだか少し、美しくも愛おしくも思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

首を落とした後はそのまま少しぶら下げたままにし軽く血抜きをし、

お湯にさっと浸ける事で鶏の毛穴を開かせます。そうすることで毛をむしりやすくするのです。

素手でむしりきれなかった細かな毛はバーナーであぶりながら切り、そして次に解体をします。

 

 

 鶏を解体していく中で気づくのが、鶏たちの肉付きの無さ(悪さ)です。スーパーで買う鶏のもも肉一枚(ブロイラー肉)より、ずっと少ないもも肉しか採れないのです。しかし、これが本来あるべき姿なのかなぁなんても考えたりしました。

そして、焼き鳥屋のすごさです。何がすごいって、焼き鳥は本当に出来る限り

無駄無く余す事無くさばいた鶏をいただけるのです。

もも、手羽先、とりかわ、すなぎも、ぼんじり、はつ(心臓)などなど...

そして、もう一つ気づくのが例えばハツ(心臓)。想像していたよりずっと一羽から採れる心臓の大きさは小さくて、多分それは焼き鳥屋さんによると思うのですが串一本分もないでしょう。(0.5本分とか?)

そうか、こんなにも小さな心臓で鶏たちは生きていて、僕は焼き鳥屋に行くとその心臓を、何匹分もの命をばくばくと食らうのか、と気づきました。

 

 

 

 

"屠殺"を通して

 

 

 

 

そして、僕が今回の屠殺を通して思った一番大きなことは「鶏一羽を絞めて食べるまでには、膨大なエネルギーを要する。」ということでした。それは、表面的に見ればただ鶏を殺し解体して調理するだけの事で、回数を重ねればどんどん短縮されていく時間と労力でもあると思います。しかし、僕がここでいう”エネルギー”というのは、鶏一羽の生命(いのち)の目に見えないエネルギーであり、それを食らう僕ら人間の(エネルギー)です。図体の大きさは違えど、鶏も人間も一生命体の一つで、その命のエネルギーに大小や優劣は、そんなにもあるのでしょうか。

 

 

 

戦後、明治時代に入り西洋の文化が入り、日本人が口にする肉の量は今日までに10倍にもなったという話をどこかで聞いたことがあります。効率性を求め、生産性を求め、お客様のニーズに応えることを求め、

毎日肉や魚を食べることに何の疑問を持つことも無くなりました。

しかし本当に、僕らはそれだけの肉魚を食べる必要があるのでしょうか。それだけの命(エネルギー)を食らう必要あるのでしょうか。そんなことを悩み始めた今日この頃です。

 

 

まだ、自分の中で結論付けは出来ていません。辛いけど、目を背けたくなるけど、

もっともっと知っていこうと思います。まだまだ、余りにも知らないことが多すぎるから。そして、「食べる」のが大好きな自分は、もっと知る必要があると思うから。

いつか自分の中で、決心がつくその日まで。

 

 

 

 

「食べる」とは。

 

                                    里口 空

 

 

P.S. 今回屠殺のイベントにて、プロのカメラマンであり猟師でもある幡野 広志さんが撮影してくれた写真は、"グロさ"を与えるものではなく

"命"の美しさをリアルに写し出してくれた、とても素敵な写真ばかりでしたのでフェイスブックにてまた後ほどまとめてアップしたいと思います。興味のある方は、そちらもぜひご覧になってください。