「いただきます。」
こんにちは!SORAです!今日も金曜日(日付またいでる)なんで更新しますー!
記事を書き始める前に、最近の僕と言えば新潟に遊びに行く口実として車の免許合宿に参加し遊んでますwそんな僕も今日仮免許証をゲットしました!!
路上で運転してみて、運転ってこんなにも難しいのかとビビってます(笑)
さてさて、そんな事はさておき。今日は「いただきます。」について書きたいと思います。
僕、生まれる
1997年2月、僕が誕生します。生まれた頃から食いしん坊だったらしく
小さい頃からよく聞かされた僕の食いしん坊エピソードとして
『サッカーボールおにぎりに興奮し、誰かに取られまいと一気に10個口に詰め込んだ』などがあります。こないだ幼なじみから言われたのは
「初めて空が保育園に来た時、『こんなにご飯を食べる人がいるんだ』ってめっちゃ驚いたのを小さい頃だったけど覚えてる。」
と言われました(笑)
どんだけ自分、食いしん坊やったねんと思います。
当時の僕の記憶としては、毎日の給食がただただ美味しかったと言う事くらいです。
小学校に入ってもその『食べること』についての熱は冷めず、ただただ無心に、
まるで競争のように学校でも家でも食べ続けました。
多分、「空くんはほんとよく食べて偉いね!」と言われるのが快感すらに感じていたのでしょう。そうやって食べ続けて、行った末は ”デブ”でした。
もうほんと、ピーク時はお腹にスイカ入れてるんじゃないかくらい太ってました。
しかも、幸か不幸か、その事に(太っていた事に)しばらく気づいていなかったのです。
そして時がたち、歳を重ね、周りの目を気にするようになっていき
自然とデブへの自覚も湧き、ダイエットし、痩せていきました。
そんな、食べること、が大好きな僕が小さい頃から徹底されて言われてきたのが
『いただきます』と『ごちそうさま』をちゃんんということ。
その一言ずつを言わないと、「ちゃんと『いただきます』言ったの?」と
よく注意されました。
「食べ物には、お肉にも野菜にもお米にも、みんな見えないけれど”命”があって
それに感謝する為にちゃんんと『いただきます』と『ごちそうさま』は言わないといけないんだよ。」
これが僕が最初に習った『いただきます』でした。
「いただきます」言えない日本人
これは、昨年海外にいて色んな多種多様な文化・習慣を持った人達と交流がある中で
無意識的に(必然的に)気づいたのですが、この「いただきます」 と言う習慣、
そこに秘められた想い、感謝の言葉であるということ、『命を”いただく”』という
概念は、日本独自のものであるな(韓国では、同じ考え方があると思う。)と
感じました。普段何気なく口にしていた言葉が、こんなにも素敵な言葉なんだと気づいた瞬間でした。
さて、それでは皆さん。ちゃんと毎回の食事で「いただきます」って言えてますか?
中学校、高校に上がるに連れて僕はご飯を食べ始める時”嫌悪感”を抱く事が増えてきました。それは、何か食べ物をいただく時にちゃんと「いただきます」を言う人が
少なくなっていったことにと、僕自身もソレを言い忘れることがあったことにです。
”恥ずかしい”や、”一人でいるときは言うのが面倒くさい”など言う人がたくさんいて、
それが年を重ねるごとに多くなっていった気がしました。
「ごちそうさま」、とは。
さて、僕が今言った「いただきます」と同じくらい強い思いを持っている言葉が
「ごちそうさま」、です。
よく、「ちゃんと米粒まで食べなさい!」と親に注意されました。
恐らく皆さん知ってらっしゃると思うんですが、『はだしのゲン』という漫画を
小学校の頃読みました。その漫画のあるシーンで、炊いてない米粒一つを奪い合って
ゲンとその弟が殴り合いの喧嘩をする場面がありました。それに見かねたお母さんが、
「お母さんお腹空いてないから、お母さんの分もあげるから、だからそんなことで喧嘩するのはおよし。」と自分の食べるはずのお米をあげるシーンには思わず涙が出るとともに、「昔の人は、こんなにも、米粒一つで喧嘩するくらい食べるものがない時代があったんだ・」と衝撃を受けたのを今でも覚えています。
それからか、(その前からかもしれないが)僕は米粒一つでさえ残すのに
違和感を覚えるようになっていきました。説教ぐさく「ちゃんと米粒までたべなよ!
その米粒一粒ですら貴重で食べられないひとが世の中にはいるんだよ!」と
ことあるごとに友達にも言っていた時期がありました。今思えば、それは間違った事は言ってないしもちろん悪い事ではないと思いますが『自分食べる事についてちゃんと重きを置いてます』アピールの、自分勝手の自己満足に過ぎないかなとも思います。
それは、もうその人がご飯に感謝してるしてない、というよりも
”習慣”の違いだと思うから。
”屠殺”への出逢い
さて、ではなぜ今日こんな話を改めてしているかというのには、ちゃんと理由があります。それは、”屠殺(とさつ)”への出逢いです。
屠殺(とさつ)ないし屠畜(とちく)とは、家畜等の動物を殺すことである。
一般的には食肉や皮革等を得るためだが、口蹄疫などの伝染病に感染した家畜を殺処分する場合にもこの語が使用される。ーWikipediaーより
ある方にたまたま最近お会いし、この言葉をそこで初めて知りました。
僕がその方と強く共感したのが、『”食べる”ことが大好きなこと』と、
『”食べ残し”が嫌いな事』でした。
普段日常的にご飯を食べていてもそうですし、居酒屋や結婚式場で働いてみても
感じたのですが、それは「食べる」行為への各々の配慮が余りにも欠けているということ。だからあり得ないくらいの食べ残しや食料廃棄が出るし、
「食べ残す」ことについても何の躊躇も無い人が増えていく。
じゃあなぜ、みんなご飯をもっと大事にしないのか、を考えていった時に
出てくる一つの考え方としてあったのが
「みんな食べ物の”命”を感じる瞬間が余りにも少なくなってきている。」
ということ。
例えば、それは美味しい野菜やお米を育てる為の手間ひまや苦労であったり、
普段口にするお肉やお魚、といった命の、”生き物”が”お肉”へと変わるプロセスを知る場面のカットだったりすると思います。
例えば、普段スーパーに牛肉を買いにいってお肉を買うときはいつも便利にカットされて包装されたものであります。都会では特にだと思うのですが、お魚を買うときでさえ
一尾ずつではなく今は切り身にあらかじめされ小分けに包装され売られていることが多いと思います。そうやって、消費者の為にどんどん便利化・効率化されていくなかで
自然ともともとあった生き物の”命”が断たれ、”お肉”へと変わるそのプロセス(過程)
を感じる場面が失われていってると思うのです。そのプロセスをみんな知らないから、
食べ物(命)への感謝が薄いのではないか、と。
僕がこういった考えをその人から聞くまで、僕自身も気づかなかったこの
命が断たれて革やお肉へと変わる瞬間。そしてこの考え方は僕の
「なんでみんな『いただきます』、『ごちそうさま』を言わないのか」
という疑問を解決する兆しにも感じました。
そうやって知った、新たな世界、”屠殺”が、僕の中で今マイブームです。
猟師のお仕事であったり牛、豚、鶏の屠殺じょうであったりを調べたり本を読み進め
前よりもっとよく知っていくのが楽しいのであります。
近いうちその方に鶏、もしくは鴨の締め方を教わりたいと今考えていたり
牛の解体場を見学をしに行きたいと思っております。ジビエ料理なども
食べにいきたいな、と。
「食べるのが大好き」
と思っている方にこの記事を読んでもらえて、もしこの今まで気づかなかった視点で
「食べる」行為を見てもらえるきっかけになったらいいなと思います。
そして僕自身がこの記事を書く事によってまた違った視点で
「食べる」ことに向き合えたり、そうである人とつながるきっかけになればいいな
と思います。
余りにもまとまりの無い(相変わらずの)文章とはなりましたが、
今日もここまで僕の記事を読んでくださった方々にただひたすらに感謝の思い出あります。そしてこの「食べる」ことへの思いはこれから先、僕の(人類の)
永遠のテーマでもあると思いますのでまた記事などにしてもっと深く掘り下げていきたいと思います。
今僕が興奮しながら読んでいる本。
すごい面白いので、みんなにも貸して読んでもらいたい。
あぁ!酔っぱらいながら記事を書いていたらもうこんな時間!明日の(数時間後)の教習に向けて今から寝ようと思います!誤字脱字すみません。みなさんのフィーリングで読み取って頂けると幸いです。それでは、また来週〜