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ヴィパッサナー瞑想10日間コース@千葉 体験記〜2017年3月〜

 

 

 

 

つい先日まで、私はとある変わった修行合宿に参加していた。

私の記憶からその時に得た体験が薄れていってしまわないように今日はその時の体験についてここに書き残しておこうと思う。特にこれまたメッセージ性などは無い文章なので、暇つぶしがてら読んでいてほしい。

 

 

 

 

ヴィパッサナー瞑想10日間合宿コース

 

皆さんの中に、ヴィパッサナー瞑想という瞑想法を知っている人がどれだけいるだろうか。”知っている”とまでは言わずとも、聞いた事がある人ならきっとよく東南アジアやインドに旅行するのが好きな人、またはヨガが好きな人は少しとばかりいるであろう。

かくいう私も、初めてヴィパッサナー瞑想を知ったのは高校卒業してすぐの一年間、海外を放浪していたときだ。その時は、よくヴィパッサナー瞑想が何なのかよくわからなかったが、とにかく行った方がいいと強くお勧めされた。「何をするの?」と聞くと、

「10日間、人と話さず、目を合わせる事も無く、文字の読み書きや、音楽を聴いたりする事も無く、ただ食事と睡眠の時間以外は瞑想をする。」

と返ってきた。

 

それは、限りなくクレイジーな体験であろう。今まで生まれて言葉を発するようになってから10日間、一言も人と会話する事無く過ごした事など無い。ましてや、目を合わせたり

読んだり見たりすることもないなんて一度もないだろう。常人なら、頭がおかしくなるんじゃないだろうか。そう思った。

しかし、今までこのヴィパッサナー瞑想をしてきたという人に何人も会ってきて、

「やって本当によかった。人生が変わった。」という人にも何人も会った。決まってそういった人達は本当に面白い人生を歩んでいる人が多かった。それだけでも、私の心をわくわくさせるのには充分だった。

 

ヴィパッサナー瞑想の真髄

 

”ヴィパッサナー (Vipassana) は、物事をありのままに見る、という意味です。インドの最も古い瞑想法のひとつで、2500 年以上前にゴーダマ・ブッダによって再発見され、普遍的な問題を解決する普遍的な治療法、 生きる技として、多くの人に伝えられました。 宗教とはかかわりをもたないこの技は、あらゆる心の汚濁を取り除き、解脱という究極の幸福を目指しています。”

日本ヴィパッサナー協会HP 『ヴィパッサナー瞑想とは』より引用ー

 

これだけ読んでも、正直よくわからないだろう。なので、少しずつ簡単に私なりでのヴィパッサナー瞑想についての解釈をここで説明しようと思う。

 

 

瞑想というのは、それぞれで方法や目的が違う。精神統一であったり覚醒であったりその種類は様々だ。そしてこのヴィパッサナー瞑想を通して目指す最終目標とは。

そう、それはこの上記に抜粋した文章にもあるように”解脱”である。

冗談でもなんでもなく、この”解脱”は正しい修行をする事によって誰しもが到達出来るものであり、そしてそのための”正しい修行法”こそが”ヴィパッサナー瞑想”なのである。

 

もちろん、この10日間で”解脱”に至る事など出来ない。10日間コースというのはあくまでこの瞑想法を正しく理解・実践・継続させる為のものであり、その第一歩といえるだろう。けれどそれは大きな一歩になり得る非常に価値のあるものだろう。

 

仏陀の解く世界

 

仏陀は、この世の中には渇望・嫌悪・怒り・悲しみで満ちているという。

起きてほしいことが起きず、起きてほしくないことばかり起り続ける。自分がどんなに祈っても、苦しいことは人生で起り続ける。

では、その苦しみはなぜ消えないのか、いったいどこからやってくるのか探し始めた。

ゴータマ氏は28歳の時に出家をし、幾人もの賢者たちにその真理を探し出す為に教えを請いた。7年もの年月をかけ、ありとあらゆる修行をしそしてある日大きな木の下に座り彼はある決意をする。「自分はこの真理を見つけ出すまで、絶対にここから動かない。」これがのちの菩提樹と呼ばれる木で、ゴータマシッダールタが完全なる悟りを遂げ仏陀となられた場所である。

そうして完全なる悟りを得、仏陀となった彼ははこう言った。

 

世の中は全て、5つのプロセスからできている。それは体でおこるプロセス1つと、心で起きるプロセス4つに分けられる。まず体の中で起っているプロセス。それは、この世の全ての物質は、原子よりも小さな微粒子が集まってできていると。この微粒子はよく観察すると1秒間に何兆回ものスピードで生成と消滅を繰り返している。」

 

ここから、世の中とは無常である、常に変わり続けていくものだと解いた。そして次にこう続けた。

 

「次に4つの心のプロセス。それは、私たちが人や物事に嫌悪感などを抱く時必ず、意識→知覚→感覚→反応というプロセスを経る。」

 

これは少し例をあげて説明しよう。

  

【例】A君が僕に「デブ!」と罵りそこに腹を立てた私が「黙れガリ!」と罵り返す場合

 

A君:「デブ!」

(私の心の中)

意識:「おや、誰か私になんか言ったぞ。」

知覚:「あ、A君が私にデブと言ったな。」

感覚:「私はデブなんかじゃない!くそう、腹が立ってきた。」

反応:「ようし、私も何か言い返してやろう。」

(現実)

「黙れガリ!」

 

そう、私がA君に悪口を言われてから、私がそれに悪口を言い返すまでに実は心の中ではこのような過程を経ているというのです。そして仏陀は、この4つのプロセスのうち

最初の3つは潜在的意識なのでコントロール出来ないが、最後のこの”反応”というプロセスは修行によって止める事ができると言っているのだそう。

 

なぜなら、全てのものは無常(変わりいく)だから。

 

そして、その止める方法を仏陀「観察する」ということであるといっています。

ただひたすらに、怒りや嫌悪という感情がこみ上げたときにそれに反応するのではなく「観察」することによって、やがてそれが消えてゆくのを待つ。しかしその為には

「怒り」の感情が感覚として浮かび上がった時に気づくことが重要で、その為に意識を体の全体に集中させ、そして気づいた時には反応・反発するのではなく

ただただ冷静に「観察」し、それが消え去っていくのを待つのだという。

 

 

どうだろうか。なんとなく仏陀の言わんとしている事がわかってきた気がしなくもない。それでは次にここでその瞑想法の実践方法を紹介したい。

 

 

 

ヴィパッサナー瞑想の実践

 

まず、この合宿が始まる時、一日目からヴィパッサナー瞑想をするのではない。

まず最初の3日間は「アーナパーナ瞑想」というものから始める。その実践方法とは、

  • 目を閉じる
  • 沈黙を保つ
  • 座禅を組む
  • 鼻呼吸をする。
  • 呼吸を”観察”する
  • 観察する範囲を決める(上唇を底辺とし鼻の上を頂点とする三角形の範囲)

これだけです。そしてポイントは、この「観察」をできるだけ長い時間連続して行う事、あくまで呼吸を「観察」するのであってコントロールするをわけではないということ。呼吸が荒くても、穏やかでも、片方の鼻孔からしか出ていなくても両方で気持ちよく呼吸ができていたとしても、決してそれを早めたりゆっくりしたりしようとはしないこと。なぜなら、それは「反応」になってしまうから。

 

この一見簡単にも聞こえる瞑想法が、とても難しい。

まず、この「観察」という表現に私はつまづいた。私のなかで「観察」とは”肉眼で何か対象物を見る”ことであり決して目を閉じながらするものではなかった。だから、始め私は目を閉じ、頭の中でイメージを描いた。見えるはずの無い空気の流れを、

目を閉じながら頭の中で描いた鼻孔を、空気が入退場を繰り返す。その絵図を思い浮かべたのである。しかし、これがどうも自分としては納得がいかずもがいていたら

ある時ふとこう自己解釈した。

 

「そうか。観察という言葉を使ったが、目を閉じている以上視覚をあえて遮断しているのだから見えるはずの無いものを頭に思い浮かべるのではなく、その呼吸を、鼻孔への空気の出入りを感じ続ければいいのだ。」

 

ひとつこうした自己解釈ができると、驚く程に気持ちは楽になる。しかし、今度はまた別の問題が出てくる。

 

次に出てきた障害は、人間は一つの事に集中し続けるのが本当に難しいということである。

よし、そしたらこの呼吸を感じ続けよう。そう意気込んでもすぐに他の事が頭をよぎり始める。あぁ、足が疲れた。お腹が空いた。◯◯が食べたい。今何分くらい経ったのだろう。

そうして、気がつけば呼吸の事なんてすっかり忘れている。次こそはとまた意気込んでもまた他のことのに気が取られてしまう。これをエンドレスに続けてしまうのだ。

 

そしてこの時私が自分のなかで落とし込められた自己解釈がこうだ。

 

「よし、今呼吸がどのように出入りしているか。そしてそれが僕の肌を介して自分にどんな感覚をもたらしているのか。これを感じ続けていよう。しかし、他の事が頭によぎってもこの感じ続けるということができていれば今はそれもよしとしよう。」

 

こうした自己解釈が果たして合っているのかは分からないが、少なくとも自分の気持ちをうんと楽にしてくれ、そして瞑想にもっと集中出来るようになるのは確かだ。だから私はひとまず、こうした自己解釈を自分の中でよしとすることにした。

 

 

 

それでは、4日目にヴィパッサナー瞑想の指導を受けるのだがなぜその前にこの

アーナパーナ瞑想をしたかというと、まずぞれは精神を集中する力を養うためだ。

呼吸に意識をおき、それを感じ続ける。これは確かにかなりの集中力を使う。

しかし、精神集中だけが目的であればもっと他に楽な瞑想法もある。例えば、何かを呪文唱えながら瞑想する。あるいは、何か特別なイメージ、特定の人やモノ、自分の信仰する神を思い浮かべる。そういった瞑想法の方がずっと簡単で精神集中だけが目的であればその方がよっぽど楽である。

しかしここでそれをしないのは、ヴィパッサナー瞑想とは、「観察する」瞑想法であるからである。アーナパーナ瞑想は「観察する」訓練でもあるのだ。

そしてその観察対象が呼吸の理由は、呼吸が「意識」と「無意識」の狭間に存在するからである。人は、呼吸を絶え間なくする。「無意識的に。」しかし、その呼吸を「意識」的に強めたり弱めたり、あるいは少しの時間なら止める事もできる。

この「意識」と「無意識」の間にあるものを観察する練習をすることによって

ヴィパッサナー瞑想へ入る前の準備をするのである。

 

 

 そうしてついに、ヴィパッサナー瞑想の指導が始まった。

 

座禅を組んだり目を閉じ自然な呼吸をするのは特にアーナパーナ瞑想のときと変わらないのだが、ヴィパッサナー瞑想では三段階にわけてその方法を教えられた。

【第一段階】

  • 頭の頂点から足のつま先まで順を追って部分ごとにそこにある”感覚”を観察していく。
  • (例)頭の頂点→頭皮→おでこ→まゆげ→まぶた→鼻......→足のつま先
  • ここで、順番は関係ないが、毎回順番は変えないこと。(*見落とすところが無いように)
  • 何の”感覚”も感じないところがあれば、少し待って感覚が浮かび上がってくるのを待つ。それでもダメならば飛ばし、また次に観察してみる。
  • つま先までいったらまた頭の頂点から観察し始める。これを繰り返す

 

第二段階ではこれを、部分ごとにひとつひとつ見ていくのではなく 「同時にできるだけ多くのものを観察する。」 となる。そして第三段階ではこれを、 「体全体の”感覚”を自然な流れにまかせできるだけ多くのところを観察し続ける。」 となる。

 

 

はじめはやはり戸惑いながら進めるも、なんとなく感覚をつかめてくる。

あぁなるほど、こういうことか。そう思ったのもつかの間の4日目の夜の瞑想の時間に、一つ目の事件は起った。

 

「これから毎日、朝昼晩のグループ瞑想の時間を、”決意”の時間とします。この”決意”の時間では姿勢を変えたり目を開けたりすることはしてはいけません。絶対に足も、手も、目もこの時間だけは一瞬たりとも開かない。そう自分自身に”決意”するのです。」

足を組み、瞑想を始めるやいなや突如こう告げられたのである。

 

聖なる沈黙が終わった後に他の生徒に話を聞いても、この唐突な”決意”の時間のお告げは彼らにとっても一種の”事件”だったという。

 

 

ときどき足を崩したり、組み替えたりしながら少し姿勢を変える事によって長時間座り続ける事になんとか絶えていたのに「一切として最初に決めたその姿勢を一時間貫く」

これは、辛いなんて次元ではなかった。明らかに”拷問”だった。

そして一回目の”決意”の時間を終えたあとすぐさま数えた。

「あとこの拷問の時間が18回もある...。」

そうして4日目の夜にして”絶望”を抱いたのであった。

 

私は、この絶望から逃れる為に指導者の人にアドバイスを受ける事にした。

 

:「先生、私は決意の時間に一時間座禅を貫くのが本当に辛いです。”痛み”に頭が支配され、瞑想どころではなくなってしまいます。体育座りなら何とか出来そうです。体育座りではだめでしょうか?」

先生:「ダメということではないですが、瞑想というものはある程度の負荷がかかりながら、姿勢がのびている状態の方がいいのです。だから座禅を組むのです。その方が集中もできるし呼吸も自然でしょう。」

:「しかし”痛み”に完全に支配されてしまうようでは瞑想するという目的すらままならないです。」

先生:「その”痛み”も反応・反発せず”観察”し続けられるように務めましょう。」

:「...。ここでいうその”反応・反発せず”というのは要するに痛みを”我慢”するということですか?」

先生:「...。まぁ、ここではそういう言葉でも言い表せるでしょう...。」「まぁ、やってみてください。その”痛み”も、”変わりゆく”のですから...。」

 

 

 

結局、痛みは”我慢”するしか選択肢はなかった。

しかし、不思議な事にこの先生との会話のあとの”決意”の時間からある程度痛みに耐えられるようになった。慣れていった、とも言えるだろうが、ひとつの言葉の意味を自分なりに”落とし込む”ことができたことが大きかったであろう。

 

 

そして二つ目の事件。8日目にして突如、私の両隣の生徒が二人同時にリタイアしたのである。グループ瞑想を終え部屋に戻るとベットが片付いていて荷物が無くなっている。「あと二日の辛抱なのに、どうして...。」と思ったが

正直、自分もいつリタイアしてもおかしくない精神状態だったし

そういった意味では”たまたま”リタイアした彼らをとやかく言う資格など、私にはなかった。

 

 

最後の事件が、9日目。だいたい終盤になればなるほどみんな表情は明るくなっていき

逃げたい。辛い。といった感情も薄れていく。しかし、私の場合はなぜかこの9日目が一番辛かった。瞑想に全く集中出来ず、心には嵐がふきつけ、今にも荷物をまとめて逃げ出したかった。一人で発狂しそうだった。

 

 

 

しかし、そんな10日間も、始まったときは絶望的な長さを感じた修行合宿であったが

終わってみると短かったようにも感じる。

ちなみに、この10日目の昼前にはこの”聖なる沈黙”は解かれ、他の生徒と喋る事が許されるのだが

みんなほとんど初めて喋るのはずなのに、古くからの親友のようにすぐに打ち解け

話が尽きることはこの瞑想センターを発つ瞬間までなかった。

瞑想期間中は本当にみんな死んだような顔をしていたのに、沈黙が解かれた瞬間からそこには笑顔しか無かった。私も声を発する事に、目を合わせられる事に、ただそれだけのことにあんなに感謝の気持ちが溢れ出た日は後にも先にもないだろう。

 

 

 

10日間を終えて。

 

 

文章が長くなりすぎたので、ここらで一旦文章をきろうと思う。

 

「どうだった?」と聞かれれば、私はまず「辛かった。」と答えるかもしれない。

肉体的な辛さも想像以上にあった。本当に足がちぎれるかと思った瞬間もあった。一日中座っているか寝ているわけなので体力なんて消耗していないはずなのに、ただただ疲れた。

精神的な辛さは、一人旅を長くしていた時に感じた辛さと似たものを感じた。

常に心はさまよい、それを全く自分でコントロールが出来ない。一つの事から派生していっていくつもの悩みが頭をかけ巡り、自分なりの答え・道筋がたったかと思えばまた

「いや、この答えは間違っているかもしれない。」と悩み始める。これが止まないのである。

 

しかし、「行って良かった。」これは絶対に言える。まだうまく理由を言葉にして表現しきれないけど、感覚として感じる。

 

そして、私の「人生は変わった」のか?

そんなことはまだ、知る由もない。これまでいくつもの出逢いや体験が私の人生を何度も変えてきたともいえるし、実はその変化も含め全て運命だったとも言えるだろう。

いずれにせよ、人生が変わった瞬間なんてもっと長いときが過ぎて後から振り返った時に「あの瞬間が、私の人生を変えたのだ。」と気づくのだろう。

 

 

 

最後に、この瞑想合宿に行くことをみんなに勧めるか?と聞かれれば

答えはNOであろう。私は行って良かったと心から言えるが

こういったもので大切なのはタイミングだと思う。

行きたいと思った時、時間が出来た時、作れそうな時

そういったものがうまく重なり流れは本当にその人に必要であれば廻ってくるだろう。

だから、私は別に興味も無い人が無理矢理行くようなものでも無いと思う。

 

 

 

 

 

もし、ヴィパッサナー瞑想について興味を持ち、行ってみたいと思うのであれば日本には千葉と京都の二カ所に瞑想センターがあり、そこで月に一度くらいのペースでこの

10日間瞑想コース(実際には始まりと終わりの日も合わせて12日間)が実施されているのでぜひインターネットで申し込みをしてほしい。ちなみに費用は完全なるドネーション(寄付)制なので、それぞれが身の丈に合ったお金やものやを支払えればいいと思う。一切募金しない人もいれば、何万円も募金する人もいた。しかし、大事なのは感謝の気持ちを伝えることであると思う。

 

 

 

最後に、インスタントカメラで撮った写真。一緒に瞑想をした人たち(実際はもっといた)。年齢も職業も興味もそれぞれ自分とは全く違ったバックグラウンドを持った人たちであったが、こうして出逢い、同じ修行をともにした彼らとは、大きな”縁”があったのだと思う。またどこかで再会出来ると信じて、別れを告げた。

 

 

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